のぞみのデュアルライフ(2拠点暮らしと養生方法)

不仲な親の介護と実家のゴミ屋敷化に悩む皆さんへ 

急なお墓まいり

実家のパソコンをヤマダ電機でメンテしてもらった後、虫の知らせがあったので急遽親族のお墓まいりに行きました。当然、お供えやお花の用意は何もしていませんでした。

 

同行した父は「明日でもいいよ」と言ってましたが、遠縁のその方が風の便りに亡くなったと聞いてからずっと気掛かりでした。

 

ここで「何も用意してないから」と行かない言い訳を始めると、せっかくの思いが立ち消えになります。

 

これまで片付け、リフォーム、介護と自分の身の回りのことだけに奔走し周囲に気遣いするゆとりがありませんでした。

 

ウチがこのような状況だと知っている親族は、わざわざ気を遣わせるような冠婚葬祭の連絡をしてこなくなりました。

 

昔はよく行き来していて、私も可愛がってもらったその方は、去年の5月に亡くなっていたのを戒名で確認しました。

 

父の妹や従姉妹に連絡すると、実はみんな知らなかったそうです。えええっ‼︎

 

聞けばその方はお子さん達と折り合いが悪くなり、夫なき後の婚家を出てシェルターで暮らしていたそうです。そこで亡くなり、折り合いの悪かったお子さんの一人が手続きや納骨までしたそうです。

 

57歳で未亡人になり、舅姑を見送って田畑や仕事を頑張っていたのに。

 

他人にはとうてい想像できない出来事があったのだと思います。自宅は買い手のつきにくい場所にあり、売りに出していますが処分の見通しはたたないようです。

 

その方の舅が苦労して手に入れた家でしたが、三代で一家離散の結果になりました。

 

父の従姉妹にこの件で電話すると番号が使われていなくて、知らぬ間に転居していたことを初めて知りました。

 

一つのアクションでいくつも知らなかったことが判明しました。私の虫の知らせも馬鹿にできないようです。

キョウイクとキョウヨウ

数年前からよくいわれていますが、高齢になると今日行く場所、今日する用事があるとないとでは、生活の張り合いがまるで違うということです。

 

地縁血縁のない土地に住み、現役時代はそれでよくてもふと気づくと近所にお友達がいません。お隣さんがどんな方なのかも知りません。

 

お仲間ほしさに急に地域活動やボランティアに参加してみても、なんだか浮いてしまいます。

 

面倒でも、現役時代から仕事に関係ない人付き合いをしておくと楽ですよね。実際は難しいですが。

 

そしてどれだけ本音で喋れる相手がいるかで、生活の充足感が違ってくると思います。

 

狭いコミュニティの中の価値観で息苦しさを感じるなら、尚更幅広い年代の様々な人と接点があると、悩みが悩みですらなくなるかもしれません。

 

あ、それもありなのね、そういう考えもあるんだ、と発見するだけで気持ちが楽になると思います。

 

そうすると小さな拘りが少しずつほどけていくような気がします。今、自分の暮らす近隣だけが社会のすべてではないのですものね。

太宰治 朗読会

友人曰く私の好き加減は心中したいレベルなそうです。

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お相手の山崎富栄さんを羨ましく思ったこともあります。金木のご実家に伺ったこともあります。桜桃忌、三鷹禅林寺にお参りもした墓マイラーです。

 

去年はお嬢様の津島佑子さんも亡くなり、斜陽も遠くなりにけりの心境です。

 

太宰がわずかな期間暮らした船橋で朗読会がありました。小説に出てくる夾竹桃が移植された中央公民館の近くでした。

 

元アナウンサーの女性がピアノ演奏に合わせて、短編小説の中のいくつかを朗読してくれました。

 

太宰特有の気恥ずかしくなるような細かい心理描写を丁寧に表現していきます。ピアノ奏者さんは津軽のご出身で、太宰の実家である津島家の遠縁に当たる方なのだそうです。

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こっそり読みたい内容の小説を大勢の前で朗読したらどうなるのかしら?と勝手に心配していましたが、杞憂に終わりました。

 

心中相手の女性だけ死なせてしまい、薬に溺れ、文士徴用され、悪さしようにも育ちの良さが邪魔し、志賀直哉に喧嘩をふっかけ、兄に除籍され、女性の心情をありえないほど細密に表現する彼の作品で一番好きなのは「皮膚と心」です。悶絶もの。

 

http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/267_34632.html

 

 

70過ぎると友達がどんどんいなくなる

だいたい70過ぎると毎年友人が減っていきます。

 

ついこないだ会ったばかりなのに。先週電話で話したばかりなのに。ということが増えていきます。

 

数年前、たまたま実家で父の友人の電話を取ったので取り次ぎました。入院中で病院からかけてくれたそうです。

 

話したいことが山ほどあったようで、次々とお話が止まりません。父は庭仕事の途中で受話器と反対の手に道具を持っていました。

 

20分ほどお付き合いしたところで、聞いている父も疲れてきたようで「まだ療養中なんだから今日のところはこのぐらいで…」と会話を切ってしまいました。

 

二週間も経たずにその方が亡くなったと連絡が来ました。

 

最後にどうしても話しておきたかったのでしょうね。人とのお別れというのは案外そんなふうに突然やってきたりするものです。

 

あの時最後になるかもしれないと、公衆電話からかけてきたお友達の気持ちを思うと寂しくなります。

 

しかし年齢を重ねると、このような予期せぬお別れがたびたびあるようです。

 

この人と会うのは今日が最後かもしれないと思っていると、時間や約束を守らないなど起こらないかもしれません。だって次のチャンスはもうないのですから。

ずっと見ていたい光景

先日ランチで中華のお店に入ったら、私の隣に高齢男性と私ぐらいの女性が座りました。親子のようです。

 

平日のお昼からビールと飲茶をお供に楽しそうに過ごしていました。

 

娘さんはお父さんが美味しそうに食べる姿をスマホで撮影しながら、飲茶の食べ方を解説していました。

 

ハキハキと話す娘さんに、お父さんはうん、そうかなど言葉少なく、それでも非常に満足そうな様子が見てとれました。

 

私は、父親の小皿や調味料を準備し甲斐甲斐しく世話を焼く娘さんが、おそらく母親そっくりなのではないかと想像しました。

 

お父さんはその場の采配を娘さんに完全にお任せで安心しているようでした。

 

こういう光景を世間的に羨ましいというのでしょう。ただいるだけで周りの人をいい気分にさせるのですからすごいです。

 

いつまでもそばで見ていたいと思いました。