のぞみのデュアルライフ(2拠点暮らしと養生方法)

不仲な親の介護と実家のゴミ屋敷化に悩む皆さんへ 

介護スキルが思わぬ場所で役立った

カフェで会計を済まそうと並んでいたら、店頭で車椅子から半分転落し足が足置きに挟まった奥様をどうにもできず困っている高齢男性と出くわしました。

 

周りの店員さんたちはオロオロするばかりで、手の貸し方がわかりません。

 

大丈夫ですか?って大丈夫なわけないじゃん。

 

とっさに挟まった足を抜き出して、身体を持ち上げて車椅子に座らせました。

 

たまたま母で練習していたからできただけなんですが、まさかこんな場面で役立つなんて。

 

身体介助は変な場所を掴んだり引っ張ったりすると脱臼したり骨折の恐れもあり迂闊に手伝えません。健常者は自分の感覚で誘導してしまうので無理もないですが。

 

高齢男性はやっとの思いでコーヒーを飲みにきたのにお店に入る前からトラブルで楽しい時間を過ごせたかな?と案じてしまいました。

 

先日NHKスペシャルでご一緒した偉いセンセイもおっしゃってましたが、認知症など障がいのある人も来れるようなお店づくりを工夫しないとマーケットがしぼんでいく、というのを目の当たりにしました。

 

ユニバーサルデザインなどと言われて久しいですが、相変わらず世の中は健常者を対象とした作りになっています。

 

くだんの高齢男性も身体の不自由な連れ合いと一緒に出掛けて気晴らししたかったのでしょうけれど、街もお店も病院ですら‼︎健常者用に作られています。

 

少しハンディがあっても外出できる機会があるとないとでは生活の潤いが違ってくると思います。

 

お店もトイレもバリアフリーにするにはコストもスペースも余分に必要で、それじゃ儲けに繋がらない。

 

もっともな意見です。ただハンディのある人だって大事なお客様に繋がる可能性もあります。店員さんが身体介助スキルを身につけるのだって無駄じゃありません。

 

私が母の歯科を訪問に変えたのも上記の理由からです。ドクターはとても良い方ですが、出入り口が階段で段差だらけ、和式トイレのクリニックなのでお別れしました。バリアフリー改修に考えが及ばない医療従事者から治療されたくないので。

徘徊されたらどうやって探すか

自宅周辺では警察の広報車が「青いシャツに黒いズボンの○歳の男性が○曜日から行方がわからなくなっています。お心当たりの方は○○警察までご連絡下さい」と放送しています。

 

ちゃんと聞いていて連絡する人がどのぐらいいるかわかりませんが、それでもなんのアナウンスもしないよりいいでしょう。

 

ただし徘徊者が発見されたかどうかの結果報告はないので「見つかってるといいな」と心のなかで祈っています。

 

警察に捜索願いを出すのは勇気がいります。ウチもそうでしたが、なんとかおおごとにせず内輪だけで片付けようとするので、探したけれどダメで最後の手段みたいな感覚だろうと思います。

 

届け出た時には、いなくなってから相当な時間が経過していると思います。

 

私が不在時、母が炎天下でいなくなり10時間後見つかったことがありました。親切な人がペットボトルのお茶を買い与えて手に持たせてくれていました。

 

そんなふうになってしまった母を見て胸が苦しくなりました。同時に家庭でみることの限界がはっきりわかりました。

 

もう無理なんだ

 

近所でデイサービスに通ってるのを知られたくないとか、どうでもいいプライドで家においていた父も介護サービスを受けるきっかけとなりました。

 

こうであってほしいとか昔はこうじやなかったとか、こちらの期待を勝手に押し付けられても相手にとってはいい迷惑です。

 

早く安心な場所を与えてあげられれば、びっくりするほど穏やかになって徘徊もなくなります。

 

現状を受け入れるよりないのです。

地主さんってどんな人?

地方の田舎なので、親戚や友達に地主さんがわりといます。私の率直な印象は「自由がなさそうだな」です。

 

だいたい江戸時代からの旧家で、代々地域の要職についていたりお堅い地方公務員や、収支に関係なく賃貸物件を多数所有していたり、空き地を遊ばせていたり積極的な利活用という意識はありません。困っていないからです。

 

県の文化財になっているお城のようなおうちに住んでいる方もいます。今の技術でメンテナンスできるのかどうか謎ですが、制約があって勝手に改修などはできないようです。

 

後継者もいないので、広大なお屋敷と田畑や遊休地、代々の財産などで相続税も大変そうです。案外なにも対策してないようです。手放したくても買い手を見つけるのは困難でしょう。〇〇屋敷という形で公開するには、別の住まいを見つけて転居しないといけません。

 

昨年、親戚の冠婚葬祭で会った方も武家屋敷に暮らしていて、12LDKの間取りで実際使っているのは3部屋だけであとは先祖代々の使ってない荷物置き場だそうです。昔、一度だけ行ったことがあります。

 

現在の当主は70代で健康で動ける時間は限られているだろうに、奥様が「同級生と精進料理のカフェやりたいって話は出てるの」って20年遅いでしょう。江戸時代の漆塗りのお膳セットを使う場がほしかったようです。私の実家にも家紋入りのものが17組ありましたが、虫やネズミが這ったようなものは気持ち悪くて処分しました。

 

眺めるだけならいいんですがね。100年ぐらい蔵にあったお膳とか食器とか、お客様に使おうなんて考えられません。

 

歴史や伝統のあるものは、もうそれを作れる人がいなかったり技術が継承されていなくて高価なものだったりしますが、処分するとなると無責任に「もったいない!」という人が不愉快でなりません。

 

なんでも鑑定団とかの見過ぎでしょうか。コレクターとかマニアと呼ばれる人がきちんと管理するならわかりますが、手におえなくて埃だらけで放置されていたものが突然高価なものに変身するのでしょうか。

 

いずれ判断を先延ばしにした結果は誰かが被ることになります。自分がそれで嫌というほど消耗したので、先の精進料理カフェ奥様も「娘に片付けろっていわれてて~」とまったく動く気がないのを見て辟易します。

 

聞けば曾祖父の代からの荷物がそのままあるというじゃないですか。お嫁にきて何十年経ってるんですかね。もう自分の裁量で処分できそうですが。(地方の旧家は嫁いだきょうだい達がいろいろ言ってくるので、長男の嫁でも自由はない)

 

心はいつもノマド

ずっと同じ環境で暮らすのが苦手で息苦しくなります。何十年も同じ場所で生活するとか理解できません。

 

それは私が江戸時代から続く田舎の家で育ち、ことあるごとに「あなたが家を継ぐんだから」と言われ続け、ほとほと嫌気がさしてしまった感情とリンクしています。

 

家のために私の人生に制限がかかっている。

 

言ってる大人たちは疑問にすら思わないらしく、平然とおかしな要求をしてきます。

 

自由がない。好きなことができない。多額の固定資産税のために欲しいものが買えない。罰ゲームですか。

 

そんな生き方を要求されるって普通に変でしょ。

家のために生きろとか本気で言ってるんだろうか。

 

都会の人には理解不能と思いますが、地方の田舎では家を継ぐという概念が普通に存在します。

 

娘しかいない家庭など「お婿さんもらうんでしょ?」なんて会話が普通です。娘に自由に生きる権利はありません。

 

いっけん自由に振舞ってるふうでも「制約のある自由」です。進学も就職も習い事も友達も結婚相手も狭いエリアの中でまかないます。ものごとすべて県内で完結します。

 

それはそれでいいんですが。

 

自分で選んでいるつもりで選ばされているのではないのか?と疑問です。

外ランチの連休

実家近くのショッピングセンターの敷地内に新しくファミレスができました。

 

これまでいつも慌ただしく買い物の行き帰りに横目で眺めるだけでした。

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介護生活は外食に出掛ける時間的、心理的ゆとりがありません。行けないわけではありませんが、出掛けてお喋りが長引いたり、道が混んでいたりを考えると母のお帰り時刻に間に合いません。

 

なので結局お弁当を買ってきたり出前を頼んだりで済ませ、お昼寝で疲れを取ろうかなという流れになります。

 

そうすると次第に世間から取り残された感覚になります。

 

私は自宅に戻れば元どおりの生活で好きなお店へ出掛けられますが、父は相変わらず制約のある生活になります。

 

今回は母を長めのお泊りにしてもらって時間の余裕ができたので、連日外ランチを楽しみました。

 

田舎は個人飲食店かフードコートかというぐらい選択肢がない中で、検査病院近くのレストランと近所のファミレスに連日通い、夜は昔から行きつけのお寿司屋さんにも行けました。

 

当たり前だった事ができなくなり、かなりの根回しや準備をしないとささやかな外食すら叶わなくなる。それが現実です。

 

帰り時間を気にせずゆっくりできる幸せを再認識できたゴールデンウィークでした。