のぞみのデュアルライフ(2拠点暮らしと養生方法)

不仲な親の介護と実家のゴミ屋敷化に悩む皆さんへ 

私の名前は南満州鉄道の列車名と同じ

戦前、大陸の釜山から新京まで走っていた満鉄の快速列車の名前がのぞみです。

 

現在のN700系東京〜新大阪・博多間を走る東海道新幹線と同じなんですね。

 

ただの偶然かと思いますが。

 

私の父は満州事変の翌年に生まれ、祖父がなぜかそれにちなんだ名前をつけました。

 

理由を聞くことはありませんでした。

 

別に引き揚げてきたとかでもないのですが。

 

先日、私の名前は自分と同じように大陸を意識してつけたのかどうか父に訊ねたところ「まったく考えていなかった」という返事でした。

 

ふ〜ん。

 

私が子供の頃こういう名前は特に田舎では珍しくて悪目立ちしたものですが、今では結構気に入っています。

 

 

 

若者は終戦の日を知らないらしい

今の18歳19歳の若者は14%が終戦の日を知らないというデータがあるそうです。

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170809/k10011094771000.html

私は両親とも戦争経験者で玉音放送をリアルで聞いた世代ですから、へぇそんなものなのかと思いました。

 

幼少の頃いかにモノがなかったか、電灯に黒い紙を巻いてアメリカ軍に悟られないようにしたとか、仙台空襲や軍事教練の話とかずいぶん両親から聞かされたものです。

 

中学時代、まだジブリ映画になる前に野坂昭如先生のほたるの墓を読み、焼け跡闇市派という言葉を知りました。

 

一番印象に残っているのが遠藤周作先生の海と毒薬です。恐ろしいほどぴったりの場所に鍼を打つ医師が実は某大学で人体実験をしていて、戦後何食わぬ顔で診療所を開設しているという内容でした。

 

奥田瑛二さんが主役の同名映画も見にいきましたよ。医学部の教授役は田村高廣さんでした。

 

その当時、生きて帰ってきた元兵士たちは戦地で多くの殺人をして、平凡なおじさんに見えるあの人もあの人もみんなそうかもしれない。みたいな事が書かれていました。

 

当時は仕方なく駆り出されたのですものね。

 

今はわかりませんが、私のころは第二次世界大戦あたりはそんなにきちんと教わらなかったと思います。

 

私の親戚に満州に渡った家族がいて、敗戦も原爆投下も知らされず、着の身着のまま私の家に辿り着き、父ときょうだい同然に育った人がいましたが、それすら遥か昔の出来事という認識でした。

 

kaigo-mind.hateblo.jp

 

 

受験とかなんとか色々事情があるのはわかりますが、近代史に重点を置いた学習要綱にしてみるのもいいかと思います。

やはり他人の不幸は蜜の味?

10年ほど前に身辺のゴタゴタに悩まされ昔からの友人に相談しました。

 

まぁ私としては話を聞いてくれる相手がほしかっただけで答えを求めてはいませんでした。ヒントがあればな、ぐらいの気持ちでした。

 

だいたい悩み相談などそんなものではないでしょうか。

 

あくまでも最終決断するのは自分であって、相談相手に決めてもらう話ではありません。

 

彼女のここぞとばかりの食いつき方は、口で言うほど実生活が満たされていないのではないか?と疑わしくなるほどでした。

 

やたら「こうすべき」「私はこんなにもやっている」発言に私の話しを取って代わろうとしている心情が読み取れました。

 

なんというか「苦労したから今があって、相応の行いのないあなたはその資格がない」とでもいわんばかりの言い回しでした。

 

楽して幸せなんて許せない。私と同等の苦労をしなきゃ対等じゃない。とでも言いたげでした。しかも無自覚に。

 

あ〜喋る相手間違えちゃったな。

 

でも気持ちが落ちてる時は話を聞いて欲しくて、正論を振りかざす相手の意見も受け入れてしまうんだよな。しかも正しいとか思っちゃう。

 

そんな状況のときこそ少しだけ俯瞰してみて心が中庸でいられる自分なりの工夫ができればいいですね。

 

イマがずっと続くわけじゃないから。

 

 

特攻隊の基地が研修に使われる時代

https://mainichi.jp/articles/20170812/ddm/001/040/159000c

鹿児島の知覧町といえば、小泉元首相も訪れ涙した特攻平和会館のある場所です。

 

この地が士気を高める研修に使われていると知り、今はそういう時代なんだと驚きました。

 

私の身内に特攻隊員はいませんでしたが、選ばれたエリート達はみんな若くして犠牲になり、遺された家族も栄誉だなんて思えなかったのではないでしょうか。

 

本心の話せない時代で、とても苦しかっただろうと想像できます。

 

出立の前夜に添い寝してくれる女性たちがいたそうですね。誰だって死にたくないですよ。

 

そもそも行きの燃料しか積んでいない飛行機で米艦に突っ込む作戦自体おかしいと声をあげられなかったなんて。それでまさか勝てると思っていたなんて。

 

広島市にある人材育成会社が、独自のメニューとしてこの知覧研修を売り出し人気なのだそうです。

 

どうやら特攻隊員から覚悟を学べる、士気を高めるという趣旨らしいです。

 

記事にもあるように美化されたり、遺族の痛みが置き去りにされていたり違和感を覚える部分もありますが、72年前にこのような人々がいたことだけは知っておくべきと思います。

 

 

 

今思えばあれが脳梗塞だったII

 

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父の異変に心細くなった私は母のお泊まり施設へ行き「どうしよう⁉︎」と訴えるも、母はもう何も理解できずニコニコするばかりです。

 

遠距離介護をしています‼︎と偉そうにいうわりに、父に頼りきりなのがはっきりわかりました。

 

二人一緒で初めて母を支えられるのでした。

 

バッテリーが上がらないようにしばらく田舎道をドライブしてから帰宅すると、父が普段と変わらず待っていました。

 

その日はお総菜を買ってきて夕飯を済ませ、お互い疲れているので早く休むことにしました。

 

しかし、しかし、いつものように洗濯機を操作する父の手元がおかしいのです。

 

普段はスムーズに洗い、脱水などセットできるのに、どのボタンを何回押したかわからなくなっています。いつまでも洗いが終わらないので、バケツに取り出して洗面台ですすぎをしようとしています。しかし蛇口のひねり方に戸惑っています。

 

「目が見えにくくなってるのかも」

 

もともと緑内障なので、タイミングよく翌日に眼科検診の予約を入れていたので受診しました。

 

20年近い付き合いのドクターは「点眼忘れなんてこれまでなかったし、今日はなんかおかしいよ。眼じゃないから脳の検査をしたほうがいいよ」といいます。

 

会計待ちをしているあいだに近くの脳神経外科へ電話して、午後から撮影と受診ができるか問い合わせました。するとすぐに予約が取れて小さな脳梗塞帯状疱疹の跡が見つかりました。

 

脳の血流をよくするお薬を処方され二人で笑いながら帰宅しました。

 

その日のヘルパーさんに経緯を話すと「ウチの母も同じようにいわれてそのお薬飲んでたんだけど、数カ月後にレビー小体型認知症だとわかったの。見逃されてたのよ。だからもう一歩踏み込んだ検査もしたほうがいいかも」

 

えええっ!

 

すっかり安心していたのにまた不安に引きずり降ろされて、すぐケアマネに連絡しケアマネ経由で物忘れ外来の予約を取ってもらいました。(物忘れ外来の予約は取りづらく2~3カ月待ちが普通です)