のぞみのデュアルライフ(2拠点暮らしと養生方法)

不仲な親の介護と実家のゴミ屋敷化に悩む皆さんへ 

遠距離介護に一片の悔いなし

父の突然の訃報に、なんだかまるで予想していたかのように冷静な対応をしました。

 

離れて暮らしているからどうにもならないこと。工夫次第でどうにかなりそうなこと。なんとなくわかっていました。

 

 少し早く帰省していたら現場に居合わせることができたのでは?

 

今回はそんな思いもよぎりませんでした。

 

なぜか。

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父がもう在宅介護に疲れてしまっていること。しかし母を入所させると自分が一人になって寂しくなること。私に依存するのはさすがに気がひけること。自分にしかわからない健康不安。

 

私はそれらを感じ取っていました。

 

もうわかっていたんですね。

 

四月に言動がおかしくなり、病院三ヶ所で検査をし認知症のグレーゾーンと診断され、足首の浮腫みがなかなか取れなくて、母の義歯を作るのに毎週立ち会い疲れていました。

 

私は父を乗せて慣れない病院への行き方をナビを見ながら練習し、当日迷わず辿り着けたときはそれだけでホッとしました。

 

ショッピングセンターの敷地に新しくできたファミレスに行き、運転の心配なく昼からビールを美味しそうに飲んでいたのはつい先月です。

 

私がいれば介護以外の時間を楽しめる。私は自分を犠牲にせず、できるだけ通院に付き添える日程で帰省していました。

 

夕方のいつもの時間にメールのやり取りができなくなってとても寂しくなりました。5年半の送受信が我が家の歴史でもあります。

 

母の介護、土地の問題、バリアフリー改修、私のこと。ある程度の道筋をつけたところで安心できたのかしら?

 

眠るように穏やかな顔で、いつものお昼寝のときとなんら変わりませんでした。

 

「パパ、起きて‼︎」返事がなくても何度も声がけしました。冷たくなった顔や頭をたくさん撫でました。

 

長わずらいや延命措置は嫌だといっていましたが、ここまで鮮やかな引き際だとなんの実感も湧きません。

 

介護の後悔は微塵もないけれど、ただただ寂しいなぁ。

パパ有難う、そしてお疲れ様

7日の朝に電話で、12日に帰省するよと話したのが最後になりました。

 

9日の夕方、いつも通りメールを送ってしばらくすると母の介護施設から電話がきました。

 

母の帰宅時刻に鍵が空いてない。父が浴槽で倒れていた。心肺停止状態だった。蘇生の見込みがなかった。警察で検死をすることになった。

 

数日前から母の風邪がうつったようで漢方薬を処方されたとメールがありました。8日の19時のメールが最後でしたが、きちんとした文章でした。

 

ケアマネ、ヘルパーさん、近所の叔母と相談しながら物事を進めていき、私が到着するまでに父は自宅へ戻り枕経まであげて戴いていました。

 

叔母の段取りのよさに脱帽です。

 

母を見送るのが自分の使命だから先に逝くわけにはいかない‼︎と常々いっていましたが、介護疲れと老化には抗えず娘が親二人を見るなんて無理だと知っていました。

 

九月にはまだまだ先でもいいのに屋根の塗り替えをしました。自分の中で私に引き継がせたくないものを消し込みしているようでした。

 

七月にはMCI(認知症予備軍)の診断を受け、シール式の貼り薬で予防治療をしていました。

 

自ら地域包括ケアを上手く回せるようになり、ようやく人に頼るということを実践できるようになった矢先でした。

 

晩年は私と二人三脚で母を介護することによって、長年の不仲が雪解けしたかのような濃密な時間を過ごせました。

 

友人達との温泉旅行に私を同伴し嬉しそうでした。飲み会のとき私に送迎されるのが夢だったといっていました。

 

どれも叶ったね、パパ。

 

もう毎日のママの食事の世話やオムツ替え、洗濯をしなくてよくなりました。

 

これからは好きな時間に飲みに出かけ、読書してフルートを楽しみ野菜を育てられるね。

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フィールドが変わっても楽しいことがたくさん待っているはず。

 

本当にお疲れ様でした。

 

無駄も余白も大切にしたい

長く社会生活を送っていると、つい合理的で費用対効果を意識した生活をしてしまいます。まぁ当たり前なんですが。

 

なんの制約もなかったら実はなにを一番したいか?と問われて即答できないことのほうが多い気がします。

 

自分で自分の本音を意識していないからでしょう。

 

こうしたほうが得、これだと役に立つ。

 

若い頃はそのような思考回路が生きるうえでガイドにもなりますが、中年を過ぎると好きか、やりたいかしかないような気がします。

 

言い換えれば楽しそうと感じるかどうかですね。

 

さらにいえば、若い頃面白みのわからなかったこともお試しでやってみよう、つまらなくても別にいいや、損とかどうでもいいやの心境でしょうか。

 

私は昨年ある講座で100億あったらなにをしたいか問われて「通訳と専用ドライバーを雇って漢詩の舞台を旅したい」と答えました。

 

お釣りがきますね。

 

100億も必要ない、やり方を工夫すれば叶う程度のことなんですね。

 

 

きわどい体験談

私はやんちゃな大人が好きです。

 

一般的な海外渡航の方法はパスポートとビザの取得等、正当な方法が思い浮かぶと思います。

 

まぁそれ以外の方法だと問題ですね。

 

先日お友達とお喋りしていて、今なにかと話題のロヒンギャに言及した折りミャンマーに行ったことがあるかどうかになりました。

 

お友達はある、というので「え、いつ、どうやって?」と突っ込んだら、陸路でイレギュラーな方法でとの返事に面白すぎて吹いてしまいました。

 

いや、すごいな。たまたま無事に戻ってこれたから話せるんだろうけど、もし向こうで拘束されたり、身代金云々の話になったら洒落になりません。

 

ぎりぎりな話ってなかなか聞けません。

 

その場でなければ味わえない、生きるか死ぬかのドキドキ感がすごかったということでしたが、ある意味そんな経験が羨ましくなりました。

 

正式な窓口を通さず入国するには手引きしてくれる人に袖の下を渡す、口裏を合わせるなど命がけの準備が必要です。言葉の問題もあるでしょう。

 

もちろんヤンゴンやネピドーには行ってないそうですが、実は無法地帯のエリアのほうが一般的で隣国との境界も曖昧(フェンスに穴が開いていた)なそうで笑ってしまいました。これが現実。

 

本が書けるほどのネタを持ちすぎなお友達なので、小出しに、少しずつ笑わせてもらっています。

 

あ、けして不法入国を推奨してるわけではありません。

また今度ね、はないかもしれない

昨年母の弟が亡くなりました。母のきょうだいは全員アルツハイマー認知症を発症していて、いま集まったとしてももうお互いのことがわかりません。

 

弟の葬儀に母は出席できなかったので、弟のお嫁さんと娘が家に来てくれました。

 

それぞれの近況報告をして、しばしお喋りをしたあと二人は帰っていきました。

 

その日、私は不在だったので後日電話を入れると昔と変わらない叔母の声が聞こえました。

 

母の弟は66歳でアルツハイマー認知症を発症して、久しぶりに会った私のことがわからなくなっていました。自分の育った家のトイレの場所もわかりませんでした。

 

田舎なのでそうなったらなったで仕方ないという風潮が強く、前向きな治療など特にすることもなく症状は進んでいきました。

 

新年早々、生垣を全部刈り込んでしまったり、県北部の町から仙台市内まで勝手に運転していったこともありました。

 

ずっと監視しているわけにもいかず、施設に通うなどさせなければ何かしていても家族は気づけません。

 

時折りそんな話題を聞いても私自身が遠距離介護でクタクタで、叔父のことを気にかけるゆとりはありませんでした。

 

どんな相手ともその時が最後と思わず、お互いに明日がくると思って「また今度ね」と挨拶しますが、明日は来ないかもしれません。

 

最近そんなことが立て続けに起きて、今日この人と会ったらもう次はないかもしれないと思うようになりました。