のぞみのデュアルライフ(2拠点暮らしと養生方法)

不仲な親の介護と実家のゴミ屋敷化に悩む皆さんへ 

介護者交流会の行事など

毎月参加するうちに仲良く話せる人もでてきて、町のバザーに出すものを各家庭から持ち寄って値札つけをしたり、伝統行事「芋煮会」に参加していたら地元テレビにインタビューされたり(放映は見れませんでした)施設入所にいくらかかるのか勉強会をしたり、資料づくりをしたり、クリスマスや年度末の持ち寄り食事会など私の心の拠り所になる場となっていきました。

 

田舎にはほぼプライバシーなどないので、身内の病状をこの場で話すことは翌日には町内に広まるリスクもありますが(実際まったく喋った事のない人が私について随分詳しかったです)それを恐れて一人で抱え込んでしまうにはあまりに酷な状況でした。デイサービスの利用を嫌がる父ですが、行くか行かないか母や私の意思もあるのに相変わらず「病」を正確に理解し向き合う事もせず、様々な事ができなくなっていく母を叱責してばかりでした。大声で怒鳴っても何も変わらないのに、目の前の現実をそのまま受け止める事のできない極めて幼稚な思考回路なのでした。そのたび「昔からそうだったよな。そういうところが嫌で距離を置いたんだった」と再認識すること度々。

 

今でも詳しく解明されていない認知症ですが当時はもっと情報量が少なく、時折新聞の健康欄や深刻なテレビ番組、週刊○○などというお堅い雑誌で特集が組まれるぐらいで、ネット検索のできない当事者世代はそこに書かれている一般症例をそのまま鵜呑みにしてしまう印象がありました。そして大概そのような記事は悲観的な構成で読むだけで嫌な気分になり、中には「こんな方法で改善した!!」みたいな稀有な事例を自分に都合よく当てはめて母に訓練まがいの無理強いをしたりピントのずれたことばかりしていました。その当時の私の正直な思いは「老人って愚かだ」でした。「これまでこれで上手くいってたんだから、この先もずっと」なんて幻想でしかないのにこのような事態になっても解らないのだから、今後更に大変になってくるのは目に見えます。私は何度も介護サービスの利用申請を勧めましたが「まだ必要ない」の一点張りで人の話に耳を貸さない父でした。「まだ」って「いつ」なら必要になるんだ?そうなるまでなんの打つ手もなく時間が過ぎるだけの日々を送るつもりなんだろうか。「デイサービスを利用すると送迎バスが来て、近所に知られてしまう」「施設利用=家庭での役割放棄」という潜在意識と「病を知られたくない、恥ずかしい」という考え方で刻々と症状が進んでいくのを無駄な期待を抱きながら傍観しているだけのようでした。

 

今思えば病に対してあまりに無知でした。様々な資料を読みドクターから説明を何度も聞いているのに肚に落ちていない状態だったのでしょう。私は自分のこの先の人生も考えなければならないし、熱心にサービス利用の話をするのを一切やめてしまいました。「こうするといいよ」「おやつも出るんだって」「体験入学もあるよ」といくら言っても聞く耳を持たない相手に助言するほど無駄なことはないし、そのやり取りで消耗したくないので本当の意味で距離を置くことにしました。簡単なことも理解できず、自分の今の行動を正しいと思いこんでいる自分の親に対してどんどん心が冷えていくのです。今思えばこの時の初動がその後の介護生活を左右するターニングポイントで一番大事な時だったのです。