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遠距離介護とゴミ屋敷問題

不仲な親の介護と実家のゴミ屋敷化に悩む皆さんへ

母の衣替えⅣ

10月の一週間の滞在は芋煮会の参加、母の通う介護施設へのご挨拶、途方に暮れるほどの衣類ゴミの選別であっという間に過ぎていきました。地方の田舎の8DKの広いだけの家は、埃・蜘蛛の巣・ガラクタだらけの物置小屋同然でした。本家だから自宅で葬儀や法要をしなければならず、多くの来客に対応できるよう何度かに渡って増築した結果住人は高齢の二人だけになり、かつ一人は介護を要している。もう一人は管理能力ほぼゼロ。なんでも「高かった・何かの為に・思い出が」でモノを減らせない。私が躊躇なくゴミ袋にどんどん入れていくと上のセリフで、せっかく分別したものをまた袋から出して元に戻す・・・いたちごっこです。私がなぜ新幹線で通って汗だくで作業してるのか理解できてるのか?部屋中収納家具だらけにして、その奥のクローゼットが開けられなくてなぜ平気なのか?人が老いるとはそういうものなのでしょうか。どれも「使うかもしれない」というほぼ来ないであろう未来の為に、今の生活スペースを無駄にしていることすら気づかないのです。そしてなんでもとっておくわりに、どこになにがあるか一切把握できていません。

「あれどこにやった?」と訊ねるとほぼ決まって「どこだったかなぁ・・・」というこたえです。しまい込むわりになにも覚えてないのです。それでは本当に「使うかもしれない」場面で活かせるのでしょうか。

 

そして地方の田舎の人の最大の欠点ともいうべき「スペース=お金」だという認識のなさです。首都圏で不要なゴミガラクタの為にもう一部屋広い家を借りたり買ったり、または収納レンタルを借りたらその分コストがかかり、月々自由になるお金が減ります。今後の生活費に直結しますから、もう必要ないモノは直ちに手放すのではないでしょうか。しかし親世代は「昭和脳」ですから多くの種類のモノをたくさん所有していることがステータスです。なん十年も正しいと思ってきたことを否定されるのは人格の否定に等しいことかもしれません。しかし「認知症介護」という急に考え方を変えなければならない事態が起きたのですから、昔の正しさにこだわっている場合ではありません。

 

埃・蜘蛛の巣・ガラクタだらけの居住スペースや生活動線がものすごく制限された、広いのになぜか窮屈な家で身体介助などできるのでしょうか。これまでと同じ生活様式で在宅介護が可能なのでしょうか。母の身体を支えられず転倒したりガラクタ家具にぶつかったりするのを防ぐためにも、住空間のスペース(余白)が絶対必要です。母の衣類整理も中途半端にしかできなかった私でしたが、とにかくこれまであるのが当然と信じてきたモノを手放していかないと、ゆくゆくは自分が大変なことになるであろうことは容易に想像できました。そしてその予想はのちに現実になるのでした。