母の施設にとても品のいい女性利用者さんがいます。同じテーブルで過ごすので訪問のたびに声を掛けています。
男性利用者さんが中国東北部満洲の話をしてくれると、この女性は南の青島で6年生まで過ごしたと話してくれました。
ご両親の事業の関係で青島で生まれ、通っていた現地の日本人学校は鉄筋コンクリートの立派な校舎で帰国して日本の木造校舎を見て驚いたそうです。
日本語教育しか受けてないから中国語は喋れないのよ、と話していました。
敗戦で、なんと米軍が上陸用舟艇(じょうりくようしゅうてい)と呼ばれる帰国船を出してくれて鹿児島に辿り着いたそうです。
満洲にいた私の親族は自力で帰国したというのに、かなり待遇が違ったようです。
青島を離れるさい、日記や写真すべて置いていくよう指示されたけれど、トランクの底に6年生皆んなで撮影した集合写真を忍ばせてきたそうです。
鹿児島から大分の親戚筋へ向かい、あいている部屋があるから住んでいいよ、といわれたけれど、おばあちゃんが福島の人で大分で暮らすのが嫌だというので福島へ何日もかけて汽車で帰ったそうです。
ところどころ記憶が曖昧になりつつも、せっかく持ち帰った写真の行方がわからなくなり、一緒に写った同級生たちも所在不明で音信不通なのだと。
すでに72年すぎてますからね。
今なら連絡先を探すなんてすぐできそうですが。
貴重なお話を有難うございますというと「こちらこそ有難う」とお礼されました。
昭和6年生まれのカズコさんからリアルな歴史のお話を聞きました。