のぞみのデュアルライフ(2拠点暮らしと養生方法)

不仲な親の介護と実家のゴミ屋敷化に悩む皆さんへ 

納棺師の神業

母の納棺に若くて可愛らしい女子がやってきました。

 

重いメイクボックスを携えて、とてもきちんとした対応でした。

 

湯灌からメイクまでそばで仕事を見せてもらい、どうやって勉強するのか?など質問すると

 

「学校などがあるわけではないので、師匠に弟子入りして学びました」ということでした。

 

ええっ、そうなんだ‼︎

 

なぜこの仕事を選んだの?と聞くと

 

高校時代の彼氏がドリフト事故で亡くなり、そのときの納棺師さんの仕事が素晴らしくてこの世界に入りたいと思ったのだそうです。

 

事故死した彼氏は傷もあり、それらを綺麗にカバーした死に化粧に感動したそうです。

 

この仕事をするにあたって親御さんの反対はなかったけれど祖父母がよく思わなかったそうです。

 

でもこの仕事のお陰で誰しも最期はお世話になる納棺ができるわけですからね。

 

母は旅立ちの着物を用意していたので、死後硬直でこわばった身体にうまくあてがいながら袖を通してくれました。

 

なかなかの技術でした。

 

動いてくれない固まったご遺体相手に、上手に着付けていきます。

 

きっと相当練習したんだろうな。

 

人によって硬直具合や体型も違うし、旅立ちの衣装も既製品なら着せやすいけれど、特殊なものだと難しそうです。

 

長く生きているとお別れの場面に遭遇する機会が増えて、今日楽しくお喋りした人とも明日はさよならかもしれないなと思うようになります。

 

肉体を失っても魂はあると勝手に思っていますが、それは元気な頃にどんな接し方をしていたかにもよるでしょう。

 

周囲の人と行き違いや揉め事は減らし、すっきりと後悔少なく日々を過ごしたいものです。

 

1年に2つ葬儀を出すとは夢にも思わなかった

10年も介護を頑張ったじゃないかと自分で自分をねぎらうも遠い昔の嫌な記憶が蘇ってきたり、私のことがわからなくなった母でも、もうお世話できなくなる寂しさもあり複雑でした。

 

父の葬儀から1年経たずにこの日がくるなんて思いもよりませんでした。

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母は施設のスタッフさんとも打ち解けていたし、このままずっと穏やかな日を送ってほしいと願っていました。

 

その反面、緊急連絡がいつ入るかわからない緊張感からもう解放されたい気持ちもありました。

 

私が想像していたより身元引き受け人というのはシビアなものだったのです。

 

これまでは父が対応してくれていたから、私は通いで身の回りのお世話をする程度で済んでいたのでした。

 

母は私の限界を察知していたのか、お盆の中日に体調が急変しそのまま寝たきりになりました。

 

治療はできないけど延命するかどうか訊ねられ、きちんと話し合ってはいなかったけれどしない方向で合意しました。

 

それが自然に抗わず一番いい方法じゃないかと無理なく思えました。

 

父の担当医、検死をしてくれたドクター、母の施設へ回診してくれていたドクター、みんな知っている病院で過ごすことができました。

 

霊安室から出るとき院長も主治医も病棟ナースも事務方も見送りしてくれて、いい場所で最期を迎えられてよかったと思いました。

 

「お母様、頑張られましたよ、穏やかでした」

 

同時に私の遠距離介護生活が終わりました。

 

介護施設の愉快な仲間たち

母がお世話になっている施設は利用者さん8人ぐらいずつのユニットになっています。

 

ユニットには名前がついていて、母のいるところは「すもも」と名付けられています。

 

そのなかに面白い利用者さんがいて、1人は93歳の男性で中国東北部満洲で日本軍の兵士として活躍し帰還された方です。

 

酸素で吸入していて、いつもう〜う〜唸っていますが、頭ははっきりとして計算ドリルなどしています。

 

おやつの時間になると「わだす、おがね払ってんのすか?食べでいいのすか?」と訊ねる義理堅さです。

 

私の身内にも満洲からの引き揚げ者がいるんですよ、と話しかけるととても嬉しそうに聞き取れない言葉で当時の自分の階級(兵士のランク)など説明してくれます。

 

以前、音楽療法の時間に面会に行ったとき軍歌を歌うシーンがあり歌詞を見ずに歌えていました。

 

すごいですね、当時の記憶が薄れることはないのですね。

 

もう1人は青島生まれの女性で母の席の真向かいに座っていて、いつも母の様子をさりげなく気遣ってくれています。

 

青島の日本人学校に通っていて現地での楽しい思い出や、敗戦で帰国するさいの混乱(米軍が船を出してくれた)その後各地を転々として現在に至る経緯を話してくれます。

 

このように第二次世界大戦のリアル体験者のお話を聞ける機会はなくなりつつありますから、貴重なタイミングを逃さないようにしています。

 

歴史の本などで知っているのは編集されたほんの一部でしかなく、私の両親も戦争経験者ですが戦地へ行ったわけでもなく疎開したこともないので捉え方が異なります。

 

こんなふうに至るところに学びの種は落ちていて、誰かが拾ってくれるのを待っているのかもしれません。

 

プログラミングを教えるのは意外な人

青森県の小学校ではプログラミングを教える人材が少なく、なんと学校栄養士さんたちが指導しているそうです。

http://www.soumu.go.jp/programming/010.html

意外と思いますが、給食メニューや調理の段取りをPCを使って仕事をしていることや、小学校内が職場で児童に近い立場にあることから最適な人材らしいです。

 

新たに指導者を雇わなくても、今いる人たちのなかに可能性を見出しうまく運用できている良い例ですね。

 

プログラミングの視点からは調理は材料や器具を用意し手順に従って進めていく(順次実行)

卵がきつね色になったら火を止める(条件分岐)

4人分作る(繰り返し)

のようにプログラムの基礎を理解するのに適している。

 

食育の視点からは子供たちは普段給食や家庭の食事ですでに調理されたものを食べているが、給食のない日は栄養バランスが偏りやすい。このため自分の力で健康的な食生活を維持するために「基礎的な調理技術」を身につけておくことが重要。

 

2030年の未来に羽ばたくために健康と同時にプログラミング的思考を持つことが重要で、バーチャル・クッキングを通して2つのアイテムを獲得し自信を持って人生を歩めるよう支援するのが目的らしいです。

 

当たり前のことですが、これからを生きるために必要なのは自分で食生活を組み立てられる力なんですね。

 

このスキルがあれば、私のように体質に合わせた薬膳メニューを取り入れるのも簡単かもしれません。

 

いずれ行く道、いつか来た道

強情で柔軟性のない高齢者に接したとき、なんともいえない悲しい気持ちになります。

 

いずれ自分も行く道だろうに。

 

過去の成功体験に固執して今に合わせようとしない。

 

昔はこうじゃなかった、前はもっと良かったのに。

 

どんどん時代に取り残されているのに昔の感覚のままで生活している。

 

人間関係は狭くなるいっぽうで、その中で一喜一憂していたり、新しいことを受け入れず最初から拒否したり。

 

自分もそうなっていないか時々わが身を振り返りますが、気づかぬうちに若い人から同じように思われているかもしれません。

 

知っている場所しかいかない。慣れてるから。

 

知っている人としか付き合わない。どんな人かわかってるから。

 

慣れている、知っているというのは安心とも取れます。

 

高齢になると変化を好まないので、経験したことのないこと、場所、人を敬遠します。

 

要は面倒なんですね。エネルギーを消耗しますからね。